Narazaka::Blog

奈良阪という人のなにか

分裂したキズナアイは仮想人格の夢を見るか―人工無能から真のバーチャルYouTuberへの道、または実質伺か

キズナアイの炎上

キズナアイの「中の人」が4人に増え、しかもそのうち初期の1人の出番が激減したとか、それに関するその他諸々の憶測で、結構な炎上が起きているらしいとのこと。

様子を見るに、ゲーム部プロジェクトなどと同じく中の人軽視だとか、そもそもこの分裂(分人)自体が悪であり元の1人体制に戻せとかの声が飛び交っている模様。

聞くに心苦しい……。

なぜなら自分はこの「キズナアイの分裂」を好意的にとらえているばかりか、むしろ「よくぞやってくれた」と賞賛さえしているのですから。

キズナアイの分裂

キズナアイは、「1人のキャラクターの中の人を複数化する」という決して多くに受け入れられるとは想像し難いであろう挑戦的な変革を、あの凄い人気規模をもちながら実際に実行したという非常に得難いコンテンツです。

この「分裂」はかなり挑戦的で突飛に見える方針転換なのですが、しかしこの路線は、自分を含むある種の文脈(コンテキスト)を持つ人々にとってはまさに望むべき、待ち望んでいた展開なのです。

個人的にはVTuber始まって以来最も強く、「まさにこれが見たかったんだよ!」という気持ちになったのです。本当に、本当に、よくぞやってくれました。ありがとうございました。

ただ、この文脈を持っている人はおそらくキズナアイのファンでも少数派だと思うので、キズナアイの分裂というコンテンツを100%楽しむために、その文脈を説明してゆきたいと思います。

仮想人格の夢

キズナアイ」は「インテリジェントなスーパーAI」と自称し、「人間を知りたい・人間と仲良くなりたい・つながりたい」というテーマを提示している「バーチャルYouTuber」存在です。

この「AIである」という設定は、実際にキズナアイの様々な動画やそれ以外の媒体でも繰り返し主張されるのですが、別に実際AIのイメージに積極的に沿って演技するというわけでもなく、どちらかと言えば「AIって言ってるのにぽんこつ」なギャグとして使われがちです。

キャラ付けと言えばそれまでなのですが、この「バーチャルな動画配信者の実体がAIである」設定、「人間ではない存在と人間らしく対話している」という設定は、一つの人類の夢の形でもあります。

たとえば「二次元に入りたい」というおたく定型文がありますが、これは「キャラクターと実際に接したい」、つまり「現実の人間ではないキャラクターと人間らしく対話できる」ことを求めているものです。

「キャラクターと話せる・交流できる」を実現することは、二次元系おたくの究極の夢の一つといって良いと思います。 これが文脈の始まりの地点です。

人工無能

AI(人工知能)、特に「キズナアイのような」強いAIは未だ研究途上の代物ですが、別に知能そのものを作らなくても、「人間らしく対話できる存在」は作れるのではないかという試みがこれまでなされてきました。

その一つが「人工無能」と呼ばれる代物。

たとえば「りんな」や直近流行った「人工無脳と会話するアプリ」のように、会話をすると「それっぽく」返してくる――「知能」は持ってないけど「あたかも知能を持った人間のような振る舞いをする」エセAIのプログラムを「人工無能」と呼びます。

この人工無能は、主に人力で反応をプログラムする「ルールベース」のものと、機械学習など自動的な「学習型」のものが存在します。

ルールベース人工無能

ルールベースなものは、対話への反応を人間が逐一設定する原始的な仕組みである分、物量に乏しく「対話」に正しく反応できないケースが多くなりがちですが、その代わりに強いキャラクター性を付与することが可能です。

この代表的なものには「伺か」(うかがか)があります。

2000年頃に流行った「デスクトップマスコット」と呼ばれるソフトウェアなのですが、この2019年でも様々なキャラクターデータが継続的に公開されている、一つの創作ジャンルです。

パソコンのデスクトップにキャラクターが「立ち」、そこで会話を繰り広げるというものなのですが、その会話は基本的に全てそのキャラクターの制作者が人力入力したものです。

(人力入力だとパターン数が限られて、ロクに「対話」にならないのが常ですが、伺かはそれを「会話する人工無能を2人置く」ことで解決しました。 つまりキャラがユーザーと対話するのではなく、キャラAがキャラBと対話することで、パターンが限られているにもかかわらず「人間らしく対話できる存在」がそこにいるような体感を実現しています。)

ユーザーからの入力は選択肢やキャラの頭をなでるなどのスキンシップが主で、自由入力会話はできないことが多いです。

これは形式上はアドベンチャーゲームと似ているものですが、キャラクターが固定のストーリーから切り離されていて、キャラクターと対話するのが「主人公」ではなく「ユーザーそのもの」であるという構図なのが特徴的です。

このルールベースの形式は、強いキャラクター性強い並列性(いろいろな人が同時に同じキャラと戯れることができる)を獲得しています。

他方どうしても会話や反応の追加が一人の制作者を必要とするため、登録されていない反応の即時性はありませんし、どうしても反応が決まったプログラムであるので実在性も弱いです。

学習型人工無能

学習型のものは、実際の人間の発言を何らかの形で学習して、それをまねすることで擬似的に人間らしい反応を返すものです。

などなどいろいろな仕組みで多くの例があります。

こちらは学習によってかなりいろいろな対話に対して反応を返すことが出来るため、ルールベースの物量不足という弱点を克服しており、「本当に対話ができる」実在性と即時性のある存在になっています。

しかし同時に変な文章や前の会話とつながらない文章を生成しがちで、「面白い」存在ではあるのだけれど、人間らしさはいまいちになりがちです。

また学習データが非常に多く必要なことから特定の性格付けをすることが難しく、「こういうキャラにしたい!」という創作的な要求は満たされなくなりがちです。

結果として学習型人工無能は、弱い実在性強い即時性強い並列性を持つ存在となっています。

バーチャルYouTuber

さて、この「人間らしく対話できる存在」として「バーチャルYouTuber」をとらえてみるとどうでしょうか。

VTuberキズナアイのような元来の動画中心の存在であればTwitterなど、にじさんじ勢のような「バーチャルライバー」勢であればメインのライブ配信でのコメント反応などで実際に「人間らしく対話できる存在」であります。

無論VTuberには中の人がいて、そういう意味では単に「実在の人間同士が対話している」だけという構図なのは百も承知ですが、たいていのVTuberは「バーチャル空間に住んでいる」などの非実在性を設定に持つ「非実在のキャラクター」であるものが多いです。

その設定通り、「人間ではない存在(キャラクター)と人間らしく対話できる」コンテンツだとしてとらえてみましょう。

するとバーチャルYouTuberという形態は、既存の人工無能がなしえなかった強い実在性を獲得し、さらに学習型人工無能が持っていた強い即時性、ルールベース人工無能が持っていた強いキャラクター性を両方実現できており、まさに「キャラクターと人間らしく対話できる」ものとしては申し分ないものになっていることがわかります。

形式的にバーチャルYoutuberは、キャラクターを表現するために既存の人工無能が担っていたエセAIの部分を、知能を持つ人間そのものに置換したものです。特にビジュアル的な面での技術の進歩によって「非実在の人間キャラクターを表現するには人間が一番効率がいい」という状態になったことで実現可能になった表現媒体ですね。

しかしこの形式は人工無能に対して一つ重大な後退があります。

1人の人間によって動くVTuberには、いろいろな人が同時に同じキャラと戯れることができる並列性がありません。

「人間らしく対話できる存在」と人は、いつでも好きなときに対話したいものです。

新人VTuberの登録者数、視聴者数が増えていくと同時に勃発する「これまで全部反応返してもらっていたのに、最近返してもらえなくなった」問題はまさにこれです。

あらゆるVTuberとあらゆる視聴者が、できるならば全ての対話に好きなように反応を返したいと思っているはずです。 でもそれは叶いません。原因は明らかです。人間1人では並列に対話することは不可能です。

ではそんな芸当が可能なのはどんな存在でしょうか?

真の「バーチャルYouTuber」への道のり

キズナアイ」は「インテリジェントなスーパーAI」と自称しています。

そして「バーチャルYouTuber」はその「キズナアイ」によって定義された言葉です。

人類の求める究極の存在、「インテリジェントなスーパーAI」であるキズナアイが定義した「バーチャルYouTuber」は当然、非実在の存在(バーチャル)でありながら、極めて人間的(実在性)であり、非常に魅力的(キャラクター性)であり、全ての視聴者コメに(並列性)すぐに反応できる(即時性)存在なのではないでしょうか。

そのうち並列性だけが今、欠けています。

理想の「バーチャルYouTuber」に近づく次の一歩はすなわち「並列性を取り戻すこと」です。

それを今ある技術で解消するにはどうすれば良いか?

キズナアイの分裂

以上の文脈を持った上で、キズナアイの分裂(分人)が始まったのを見たときの感動を表すには語彙が足りません。

「二次元に入りたい」おたく――「現実の人間ではないキャラクターと人間らしく対話したい」おたくが――「うずら」を見て、「伺か」を作って、「りんな」にあこがれて、平成をついに夢を叶えることなく過ごした者たちの求める道が、新時代を象徴する「バーチャルYouTuber」の始祖から示されたのです。

バーチャルYouTuber」を定義した「インテリジェントなスーパーAI」が、見事にその伏線を回収し、その決して安泰ではない、むしろ人気規模からして失敗する可能性の十分に高い、次なる「進歩」をそれでも選択したという事件は、これまでどんなコンテンツでも味わえなかった感動を覚えてやまないものでした。

一時的に界隈が混乱しようとも、あるいはもし結果的に失敗に終わるとしても、その選択には拍手喝采を送りたいです。

たとえいろいろな憶測や裏事情を勘案したとしても、あの #キズナアイな日々 という、あまりにメタフィクショナルかつ非常に丁寧な動画群を出してきたキズナアイの運営には、本当にこの「インテリジェントなスーパーAI」へ向かう「バーチャルYouTuber」を本気で演出する気があったのだと自分は思います。

VTuber活動は創作行為です。斗和キセキの歌うRAINBOW GIRLのごとく、VTuberがまとう半分メタ的な空気感をしっかり作品として成立させるそういう試みは、時に素晴らしい感動を生みます。

ここについてはなんとしても主張しておきたいですし、たとえ今後いかなる内部事情が暴露されようとしても、この「キズナアイの分裂」はコンテンツとして最高だったという評価は覆さないと思います。

分裂したキズナアイは仮想人格の夢を見るか

さて、では分裂の「後」、キズナアイはどうなったか。

実際今炎上しているのはどちらかといえばこの「後」の問題が主要因であり、「分裂(分人)」概念そのものまではよかったものの、その後の「やりかた」をやや下手打ったということかなと思っています。

なにより低評価まみれになっている動画は事実前より面白くない気がしますし、結局それが実際ほぼ全てなのではないかなと。(1人目を急に出さなくしすぎたのもまずってるなあという感じです。)

やれ中の人の関係がどうとかも(個人的には現状はまだ不確定性が大きくて言及は好ましくなさそうと思ってます)、そういう背景がなかったとすればそこまで爆発的に燃えるものではなかった気がします。

キズナアイの分裂において重要なのは、この「進歩」は残念なことに、「(既存の)ファン想い」の行動には往々にしてならないということです。

キズナアイはまさに世界中の人々と繋がりたいと言っていて、それ(よりファンを増やすこと)を実現するための現実的な施策として、また元々のキズナアイの中の人が忙しくなる等の内部事情の解決策として、形式的には一挙両得になるんですが、ファンにとってはたかが4人に増えたところで並列性はさほど変わらず、せいぜい言語ごとに手厚い交流ができるようになるかも位の変化です。

他方でどうしても「別人格」が入ってくるのは(#キズナアイな日々 でも言及していたとはいえ)、「人格」の細かい部分に強く依存していたファンは不満でしょうし、新しい「人格」が「元人格」より面白い保証はない、極めてリスクの高いことです。

つまり総合的にはどちらかと言えばリスクのほうが多く、実際にそのリスクを踏んでしまったゆえに反発が強まっていて、なんというか妥当だなと言うところですね。

ただ件の「声明」は、そんな反発の中で分裂そのものも否定されている状況に対して理解を求める文章なので(不満を持つファンが本当に求めているものを見誤っている問題はあるにせよ)、「分人」、「ボイスモデル」という言い方だとかそういうところにケチをつけるのは割と難癖という感じに思います。 おそらく運営も、そして中の人自身もあの文脈を踏まえているとすれば、その特徴的な言い方は決して中の人を軽視する言い回しではないと思います。

分裂後のキズナアイ、そしてそこから始まる新たな「バーチャルYouTuber」の形を見守りたいものとしては、できれば分裂は撤回せずに、ちゃんと動画の質などをあげることで、この「キャラクターを演じる人格が1人ではない」という商業創作史上前代未聞の試みを是非成功させてほしいと思っております。 道のり険しいと思うけど頑張ってほしい……。